知識欲を満足させるに足る魅力

音楽をやる人は音楽のファンだろうし、
小説をやる人は小説のファンだろう。

だから、特定の分野にはそれなりに詳しいことになっている。

ところが、詩を書くぼくは、詩のいわゆるファンというファンではないし、ほかの人の詩を多くは知らない。

ただ、自分が良いと思う詩に自覚的なだけだ。そして、自分は詩を書ける人間だときれいに思い込んでいる。この思い込みが肝心だと思う。

たとえば、詩人を名乗ってしまうと、万葉集とか松尾芭蕉とか与謝野晶子とかギリシャ三大悲劇詩とか、大学の講義に出てきそうな題材について問われることがある。

いや、知らんし。

けれど、いや、知らんし。というのは、向こう側には横柄に聞こえるかも知れないし、教養がないと思われるかも知れない。それだけの人なのねと見下されはしないまでも、著しく株が下がるのを感じる。

少なくとも、ぼくの作品に到達してもらう以前に、その知識量において、はじかれてしまうことがある。

それは、自分の不勉強と人間力不足といえば、それまでなのだけれども。

そりゃ、さまざまな作品に造詣を深めたら、それに越したことはないだろうけれども。

職業詩人や職業作家は、わりと、このあたりのケアに気を使っている人だと思う。

より、客観的な引き合いを通じて、自らの文化度を保ちながら、自分の作家ブランドをあつらえる。

そう、なにか神聖なものとか、カルト的なもの、雑学、サブカル、博識、才気、カリスマ、等々の

文化度といったらよいか知識欲を満足させるに足る魅力を常に期待される向きがないではない。

著者