シュルレアリスムについて 1

非常に、イジワルな言い方をすれば、世の中のあらゆる営みに対して「だからどうしたの?」という問いかけができる。

どれほど崇高な宗教家や思想家の類も、目的の為の方法的対処及び考え方を提示するに過ぎない。

たとえば、幸せを目的化して、その方法論を明かすというものだ。

しかし、目的化した時点で、その目的を半ば定義したに等しい。

すると、「幸せ」という概念を恣意的に決めつけ、それへの方法的手順を示すという次第だ。

しかし、これも「だからどうしたの?」というイジワルな反駁に答えるすべを持たないだろう。

そもそも、その「幸せ」の意味するものは、一面的な意味を持つに過ぎない。

かくして、宗派など各人で決めた定義を信奉するという、個人的な世界観にとらわれての思考を持つに至る。

ひとまず、目的を与えられると、目的を達成する過程に意味が生じる。

世の中の人が、いやいやながらもあくせく働けるのは、その為である。

一方、どこにも思考の上で属さないスタンスでいることを、孤独と呼んでよいだろう。

それは、孤立ではなく、孤独なのだ。

孤独は、無意味や無目的に対応している。

それは、一般に虚無と言われる。

しかし、虚無は、偏りのない、まっさらな見方から生じるものだ。(あるいは、そこに無上、無為を見たい)

世の中は、直ちに意味を持たせようとする。

それへの素朴な問いかけが「だからどうしたの?」である。

現実におけるこの虚無と意味づけする恣意との対立を、ぼくはシュルレアリスムという概念に託した。

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