シュルレアリスムについて2

ヒガミは、負け惜しみであり、勝手に自爆しているに等しい。何故なら、一方的な思い込みを端に発するからである。それは、自慢が一方的な愉悦であるのと同様に。だから、現実的には本来、両者は勝ち負けの関係にはない。何故なら、もとより両者は同じ土俵で闘いを始めたわけではなく、いずれも偶発的に直面し、想起される自意識に他ならないからだ。したがって、ヒガミも自慢も独り相撲するに過ぎないし、それは共有されるものではなく、個人的な感情があるだけである。ここで強調すべきは、感情の「情」の面である。すなわち、ここにあるのは哲学的な命題ではなく、独りよがりな思考が漂うものである。なので、ひとたび、自慢者は聞き手がいなければ、たちまち愉悦もなくなるし、ヒガミ者は、話し手がいなければ不愉快が次第に消えていく。眠って、翌日目覚めれば、往々にして、昨日の出来事は一時的な感情の動きだったことを反省し、いわゆる我に帰る。この我に帰る地平を、ニュートラルとしよう。そして、このニュートラルは純粋な思考状態である。このニュートラルな状態から、世界を眺めることは、芸術や哲学のデッサンを試みるに適している。それは、外の世界と、自分の肉体と、自意識の三位一体を客観化しやすいからである。そこには、主観的な感情から離れた、ある種淡白な眼差しがある。それは科学や数学的な眼差しかも知れない。いずれにせよ、眼前に起こっている世界の関係性が具に、あらわになる。すると、世界は、まるで、全体がひとつの生命体のように流動していることが認識されるだろう。しかし、それが、本質的に何を意味するのかは分からない。加えて、何を目的にするのかも分からないのではないだろうか。ただ、世界がここにある。と、そのように認識されている。と、かようなプリミティブなオーガニゼーションに直面する。しかし、「だからどうしたのだ?」、「だから、なんだというのだ?」ここには、神と人間を隔てる問いが存在している。つまり、ニュートラルな地平に突如として見いだされる、溝は、人間世界の臨界なのである。おそらく、溝の向かい側、その彼岸は、古来より先祖が神とか仏といって崇めている霊界である。詩人や哲学者や思想家や政治家や芸術家の多くは、この溝に飲み込まれていった。そして、今生き残っている霊長のほとんどは、溝の前で立ち往生している。あるいは、自慢とヒガミの、個人的な感情の独り相撲の世界に埋没してよろしくやっている。

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