詩の快楽について

こと詩に関して、わかりやすさというのに重点を置くのは、おもしろくない。
意味は、必ずしも分からなくてもよい。
不可思議さに突き放されたり、妙な概念につまずいたりしながら、奥行きや質感を感じたらよい。

あなたが詩に求めるものは、おそらく、論理的な説明ではないはずだ。
それは、間違いなく他の分野の方が優れているのだから。

もとより、詩は意味だけに頼ろうとすると、支離滅裂になりやすい。
それよか頼りになるのはイマジナシオンだろう。

だから、イマジナシオンと呼応する言葉、世界の咀嚼、それがおそらく、あなたが詩に求めるものではないかしら。

それでも、もしあなたがやはり詩はよく分からんし、つまらんと思うなら、ピカソの絵などにも同じような感想を持つだろうと思う。

そんな人にオススメなのは、テレビだ。あれなら、垂れ流しでも、なんとなく楽しいだろうから。

ぼくがここで書くことは、テレビとは異なる次元の快楽だ。

快楽の遊びである。

テレビは、おそらく遊びではない。

テレビは、快楽の点滴であるが、詩は快楽の食事だ。

上のアレゴリーに、ピンとこない人はテレビの住人として、それはそれとして誇りを持って生きてもらいたい。

ただ、もうひとつだけ寓意を許されるなら

テレビは、世界の独り言だが、詩は、世界との対話だ、と言いたい。

詩は、テレビより能動的な営みであり、能動的だから、遊びなのである。

もし仮に、あなたがお茶をしたり、飲み会で人と会話をすることに楽しみを覚えるのであれば、まだ脈はある。まだぼくらは出会える。

テレビのくだりは忘れてほしい。

とりあえず、あいだみつをを読むがいい。

そこで「馬鹿にしないで」と憤慨するステキなあなたは、ここまで読むのを止めずに歩み寄ってくれたね。

けれど、依然として詩は不用心で不可思議で未知であり、ぼくたちは、本質的には滅多に出会えないだろうと思う。

詩は、端的にいえば恋なんだ。

言葉の先にある何かを掴みたくて、確かめたいのだ。

既に気配は感じていて、その正体に認識をぶつけて、火打ち石みたいにパッと明るくもえあがる。

そこに、美しい風景や音楽、あるいは、狂気乱舞が見えるかも知れない。

少なくとも感じること、反芻することができたなら、あなたは自らの手で心に絵を描いていたんだ。

そして、あなたは自分のなかの詩人に気づく。

著者