詩人の皮肉

知り合いに作家がいる。ある人は、絵を描いている。ある人は、音楽を作っている。ある人は、小物を作っている。ある人は、写真を撮っている。またある人は…。時々、自分もまぜてもらうが、いつも尻込みしてしまう。そんな面々のなかで、「詩を書いています。」なんて、恥ずかしくて仕方がない。皆それぞれにこしらえたすばらしい作品があるし、すてきな音楽を聴かせてくれたりする。その空間をさらうだけの、魅力と説得力が、作品と本人をセットにして既に揃っている。ところが、自分ときたら、詩集を出版していないし、もちろん鑑賞に耐える手持ちの作品なんてない。そこには、無防備なオノツバサがひとり佇んでいるだけである。この所在なさを分かってくれる人は、殆ど居ない。そんなとき、詩人ってほんと、掴みどころが、自他ともにないのだなと思う。現物があるアートというのは、便利だと思うし、プレゼンも作品に甘んじられる。詩人は、無形のsomethingを思わせぶりに装うのが、やっとであり、すぐに装うばかばかしさにもくたびれてお酒を飲みはじめる始末。そこでの、詩人の存在意義は一切なく終始ひそやかに脅かされている。なるほど、詩の朗読をやるのも手かもしれない。でも、詩の朗読は一方的過ぎて、詩本来の静謐な咀嚼の醍醐味を自らで奪いかねないので、ぼくはそれを好んでやらない。(それはシンガーソングライターがやればよいと思う)そんなこんなで、窮鼠猫を噛もうと詩人の存在をかけて何かしらの印象を与えようと、いつも頭のなかは、ぐるぐる回っている。作家の作品に気の利いた批評を加えようか、疑問を投げ掛けようか、新しい気づきの着眼を提示しようか、と。でも、それは詩人でなくとも出来ることだ。ぼくはいかにして存在をして詩人たりえるだろうか。平素、微笑みながら、詩人という呼称に足元をすくわれ続けているのである。

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