2014-11-17

休日だというのに、閉塞感がある。
期を逸したのか、踏ん切りがつかぬ間に、時間がこぼれ落ちて止まらない。
陽のあるうちにと何故だか焦って、用事がないのに外に出る。
お金がないので向かうところはブックオフ。
名著に100円を付ける時代が良い時代か悪い時代か分からない。
客としては、安いのはひたすらにありがたい。
こんなちんけな散財でも、日頃の購買欲が解消されるとあって、部屋には徐々に本が増える。
書斎はもとより本棚もないので、枕元に積まれた本は、進行形の蔵書。
既に3冊ほど読みかけながら新たに2冊加わる。1冊はすぐ読了。
銀色夏生なんて、いったいどんな奴が読もうなんて思うのか。
読み終わってから、そんなことを思い、詩というジャンルが現代ではいかに、小腹を満たすスイーツ感に役所を得ているかを感じた。
まァ、そんなこと、読書全体に言えること。
いったい、文学って何を目指しているのか。
何がどうであれば、優れたものとなりうるのか。
エンターテインメントと文学の境目は。
などと、湯船に浸かりながら余計に謎を深めた。
なかでも、文学とは何であり、文学たらしめるのは何かという問いは、むしろ哲学に片足踏み入れた感がある。
19世紀、ドストエフスキーは、ものすごい先見性で、次世代の自我の苦悩を予言的に書いた。
物語のなかに、人間の本質、来し方行く末を可視化するのが、文学だとするなら、正当な評価は後世に委ねるしかないことが明らかになる。
否、文学に限らず表現されたもの全般が、生み出されてしばらくは評価が暫定的なものに過ぎないのだ。
そう考えると、いよいよ、遺書を書こうと強く思う。遺書とは、後世の人間に見せても恥ずかしくないような輝きのある作品のことだ。
明るい作品が、必ずしも人を元気付けるわけではない。
暗い作品や気難しい作品さえ、人をみなぎらせることはある。
何か、脈を息ついでいるなら、それは未来の呼吸に辿りつく。
生きることが表現することであるなら、尚更、自分の価値は絶えるまで問われているのだと思わないではない。
よい作品を書きたい。ここのところそればかり思う。

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