生への願望と死への願望

気分は、もたらされるものであって、幸せは、見いだすものであって、その幸せへの働きかけが、おそらくは良い気分をもたらすのであって。


結果、自ら、気分をもたらすことはできるのであって、しかし、それにはブレずに自らの幸せを認識しなくてはいけないのであって。


自らの幸せに気づくにあたって、それは虚無感の反対にあって、のっぴきならないものであって、つまりは、死に近しい臨場感なのだけれども。


死に近しい臨場感のために、己を虐め抜かないといけないのは、半分は自らの死への願望なのであって、もう半分は生への願望なのであって。


仮に、己の生への願望ばかりに偏ったならば、次第に熱をなくしていき、血が滞り、生きることを疑うだろう。(それは、幸せでなく無論良い気分でもありはしない)


死への願望が命を熱くするのは、幸せの見いだし方の極論なのであって、不条理こそが宇宙の心臓を動かすのであって、虚無を振り払う最上の手段は闘うことのほかにないのである。

死は、端的に言って、オーガズムであって憧れであり、生は、それの正しい注釈であろうとすることである。

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