習作について

経験値は、さほど重要視しない。老人が優秀ではないからだ。
但し、創作こと習作に関しては話は別である。習作は諸々自らの能動的な経験に立脚するからだ。そういう能動的な経験から得た知識は知恵と呼べるものだ。逆に、それ以外の知識は情報というものに過ぎない。ぼくらはバカだから、やたら誰か(有名な)人やモノ、誰某を知っていると言いたくなる。しかし、実際は、それらのほとんどを本質的には知っていないのが常である。表面的に知っているに過ぎない。それだけ、本質を捉えるのは難しい。本質を捉えることが、優秀ということだ。

それは、その人の発するあらゆる表現(行動)のなかではっきりする。捉えようとしたが、捉えきれなかった挫折までが、在る意味、まざまざと横たわっている。

世の中のジャーナリストも、本質を捉えようとするタイプと、情報を追うタイプとがいる。後者は自らの優秀ではない点を知っているので、他の誰かに本質を捉えてもらう為に情報を追う。したがって、半人前だ。だが半人前の領分をしっかり認識して自らの仕事をまっとうするその方面の一流の仕事人も居るには居る。

芸術家は、すべて前者、本質を捉えるものだ。ただ、そのなかにも二種類いる。ひとつは、本質を捉えるカタに準じて、それを表現するタイプ。もうひとつは、本質を捉える形式を自ら作り上げるタイプだ。もっとも、センシティブで優秀だ。

世界を発見する(気づく)のと、世界を生み出すのを、プリミティブにこなすからである。(そこには神が宿っているかもしれない)
つまり、認識主観への誠実な半生が、そのまま証明される。敬虔さとか知性とかは、おそらくは、そこに見いだされる。

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