自由人

上手く書き(描き)たいと思うと、文章(絵画)的技術を乗り越えられない不自由さにぶち当たる。

いざ、技術を乗り越えられても、今度は発想の不自由さを感じる。

発想の乏しさは、技術以前の問題かもしれないけれど。

発想から自由になりたいと思うと、自分のくだらなさに失望して、自分への執着を乗り越えなくてはいけない。

自由という日本語は自ラ二由ルと表されているから、自分本意とか、思い通りとかの概念なのだろう。

不条理なようだけど、自由というのは、言葉と現象において撞着(矛盾)している。

自由という語は、誤謬だ。

しかし、自由というのは、意思(意志)の旗印であって、ぼくたちが生きていくうえで誰もが信奉しているはずの観念だ。

本能的にそうである以上、自由は宿命だし、自由は目的だ。したがって、ぼくたちは正しくは不自由の民に他ならない。

しかし、自由は、やはりトートロジーを孕んでいて、ぼくたちは自由という目的を通して、いったい何が欲しいのか?どうなりたいのか?何がしたいのか?ということが、実は自分でも分かっていない。

これが、また皮肉なところだ。

もっとも、ぼくたちは日頃の不自由のほうで手一杯で、自由の哲学を思念する暇を持ち合わせていないのが常である。

しかし、実際、アートをやろうとしている人びとは、現に、自由ということを問うているのだ。

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