詩が読めない読める

ぼくは基本的に詩があまり読めません。
ぼくが読めないのだから、たぶんまわりの人も同じように読めないのだと思います。
たとえば、ぼくは英文が読めませんが、読めないというのは、ある種の拒絶だと思っています。
だから、読んでもらおうという時には、相応の体裁を整えるのが道理だと思います。
英語を日本語に翻訳すれば、容易に読めるようになるからです。
詩は、ある種の翻訳であるには違いないと思うのですが、翻訳とは、解説と違うので、そこに体裁云々というのは、多少ずれがあります。
たとえば、英語を日本語に翻訳して読ませる場合、前提として、読者が日本語が読めなきゃならないわけです。
ところで、日本語はおろか概念を持たない赤ん坊に概念を教えるには、どうやって伝えたらよいでしょうか。
そこは、身体表現や音楽表現の力が介在していると思いますが、同時に、その営みに詩が含まれていると感じます。
詩を読む人とは、端的に言えば、赤ん坊なのです。
何故なら、彼らは詩的言語を共通認識のうえで持ち合わせているとは限らないのだから。
したがって、詩は詩である体裁をあつらえたところで何の意義もありません。
それよか、或る感覚や雰囲気をどうしたら、著者と読者の共通のものに出来るかが問われている気がしてなりません。
その配慮や創意工夫が詩における本質的な体裁だと思っています。
そして、何より、読者にひとりの詩人になってもらうことを狙いにしなければ、結局、詩を読めないのだと思います。

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