世界詩

四年間、哲学科という特異な空間にいた。
哲学が、そんなに特異だとは思わないが、一般的にそう思われている。実際、変わり者が多かった。
ひょうひょうと、人生は演劇だと語る奴がいた。
はたまた、人生は時間つぶしゲームだと語る奴もいた。
ぼくは、ハタチ前後で人生を達観してしまうような彼らやその発言を嫌っていた。
しかし、そんなぼく自身も、変に人生を達観するような、こまっしゃくれな学生のひとりだったかもしれない。
コトバはコワい。
何故なら、世界(観)を規定してしまうからだ。
それを言ったら、そういうフィールドに思考が固定化されてしまいかねないからだ。
なので、人生は時間つぶしゲームという彼は、その発言を反芻するにつけ、少なくとも、その世界観から脱出するのが困難になってしまうだろうから。
その意味で、ニュートラル且つ柔軟に世界を問うはずの本来の哲学は頭打ちにされてしまうのだ。
したがって、小さく纏まって、頑固にすぼんでいく行く末は、明らかだった。
ぼくの目指すものは詩であり、詩を哲学していた。
だから、単一の視点で物事にけりを付けることは、自らの詩作の墓穴を掘ることを知っていた。
神は居ても良かったし、居なくても良かった。
赤の反対は白で良かったし、青でも良かった。
唯物論も支持出来たし、唯心論も一理あった。
しかし、論文や作品を作る際は、みんな違ってみんな良いというような金子みすず的スタンスでは、研究の目的から外れてしまう。
いつかは、自分の立場を表明しなければいけないし、自分の世界を表さなければならないのも世の中の掟のように思った。
故に、人生は時間つぶしゲームという彼の立場表明というのは、或る意味では勇敢なような気がした。
自分の意見を持つことは、世界に能動的に参加することだから、その一点において見習うべき姿勢だと思った。
たとえば、数学や物理学や自然科学のような証明は、正解を断言しても問題ないけれど、倫理や宗教や哲学の問題は断言が出来ない分野である。
正解がひとつとは限らないからだ。
そのように、世界と正解が複数あるものを扱い表現する手だては、ぼくには詩しか残らなくなった。
詩をたくさん書いた。たくさん題材があり、たくさん世界があった。その想像力の矛先に世界が切り開かれた。
学問は、非常に鈍足にそれに追従するように感じられた。

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