自由と本意

仕方がない。という理由で、続いてしまっていることに占領されていることが多くないですか?
つまりは、仕事と生きることなんですが、快活に生きる基礎体力を仕事が培ってくれる面があるけれど、もっぱら収入のために、時間を大部分さいているのは否めない。
それを、仕方がない。というので終わらせるのは簡単ですが、そこで思考をストップさせると、自分の奴隷化を肯定するように思えて寂しくなりませんか?
とはいえ、寂しくなる暇さえなく、みんな生きるのに必死で、一生懸命仕事にいくわけですが、内心疑問を抱きながら、半分諦めながら日々、自らの正解を出せない埋め合わせのために消費している向きがある気がするのです。
以上の考察は、社会人になるずっと以前、親が働きに出るのを気の毒に見送っていた幼少期から感じ続けている違和感に端を発しています。
この考察を、すっかり社会に揉まれて仕事人と化した人に打ち明けると、甘い考えを捨てろだとか、果たして、想像通りの返答しか返って来ないのです。
察しの通り、自分は働きたくない怠け者なのですが、仕方がない以外の何かしらの動機で働くことが出来たなら、怠けるどころか楽しくなって自ら率先して仕事をすると思うのです。
怠け者というのは、やりたくない苦役から逃れようとする意志がそうさせているはずなので、怠けようが怠けまいが、苦役から逃れられない運命に変わりはないのです。
逃れられない運命なら、いっそ、その仕方がない苦役を踏み台と捉え、自分の本意へ飛び移ることを考えるのが建設的です。
最終的に、仕方がないということを、すべて終わらせて、自分本意の時空を得たいわけです。
端的に言って、今、巷で言われている自由という概念は凡そこのような考えの投影です。
そこで、問題なのは、自分の本意をどこまで判然と認識しているかということです。
自分の本意が分からないまま、自由なんて、ちゃんちゃらおかしい。
実は、ぼくたちの大多数は何事も仕方がないという理由に当て込んで、思考をストップさせてしまって、本来の自分の本意への探求を放り出しているのかもしれません。
そうして、漠然と、自らの本質的な欲求にくすぶりながら、日夜、不自由を抱えているのではありませんか?

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