自動筆記

すぐに、まどろみの中に不意に忘れようとする、日々の切実さを、せめて書き留めずにはいられません。
詩を実践することは、ぼくにとって撞着なはずです。
理由のひとつに、苦しみと歓びを分かち難く受理せしめること。
もうひとつの理由は、書いている自我は、書いていることを半ば忘れているほど、認識主観は認識に憑依していること。
そして、目的は無目的に向いていて、無目的はまた目的に束ねられるという不可思議な撞着です。
このように、自らの詩作の理屈を書き連ねれば書き連ねるほど、ぼくは自らの創作を能動的に進めることに自信が持てなくなるほど錯乱してしまうのです。
要するに、ぼくは自らの感性の仕組みを理屈として理解出来ていないのです。(感性と表現の疎通の因果関係が分からないから)
そのため、ぼくは理性そのもの以上に、ずっとまどろみの中に自らの詩的習慣を設置しておくことにしたのです。
それは、いわば理屈の筆記というよか、よもや自動筆記ではなかろうかと勘ぐっているほどです。
理屈で考え得る部分としては、せいぜい、美味しい木の実を実らせるには、土を豊かにしておかなければといったことくらいで、それがぼくの意識的生活の凡そほぼすべて、です。

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