絶望は念入りに

絶望は、念入りに。
むしろそれは希望的になっていく。
右を向いても、左を向いても代わり映えしないので、代わらない日常を反対に回って、直視して、再度、右を見て左を見る。
人びとは、こういうのを客体化と呼ぶだろうか。
或いは、それを自画像とも呼ぼうと思えば呼べるだろうけれど。
ただ、やはり、念入りでなくてはならない。投げやりな自画像は、安易な破滅だ。
ぼくは絶望を、不条理の直面と解釈している。
不条理の直面は、案外静かに、傍観するような面もちで迎えてしまうのが不思議なところだ。
たとえば、ぼくはぼくであるという事実も、少なくともれっきとした絶望なのだ。
絶望、すなわち不条理の直面は、思えばある種の悟りを含んでいる。
ひとつの抗い難い真理らしきものに気づいてしまう瞬間、それは自分の力ではどうにもならない点で、不条理の直面だ。
しかし、ぼくたちは賢いので主観的に絶望する(投げやりに絶望する)ことを躊躇うわけだ。
得てして、客体化して反芻しないうちには、不条理の直面には至らない。
ぼくは不条理の直面を表現することは、芸術だと解釈している。
絵画の自画像だけでなく、風景画でさえ、作者の内的真実が画面にたち表れる。
芸術表現は、結局、自画像になる。
逆に、自画像になっていない詩や絵画や音楽は、絶望を疎かにしている。
不条理の直面のないものには価値がないのである。
表現において、絶望にポジティブでいたい。

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