無意識とは

おかしなことを書くようですが、ここ数日、無意識ということに意識的です。
語弊がある書き方ですが、能動的に考えないし、感情のない状態を想定して、それに近づけています。
嬉しくもないですが、悲しくもない。楽しくもないですが、退屈でもない。
「ぼくはぼくの仕方で、ぼく本来の感覚を問いただそう…」
自分の認識主観が、誰かの色眼鏡であったりしないかというのをしきりに疑っているのです。
たとえ、稚拙であってもぼくの詩を書きたい。
たくさんの電波が飛び交って、たくさんを受信して、そんなことに追われ続けている自由という作業が、ある日とっても虚しく感じられるようになりました。
さしあたって、目をつむって、それから出来ることなら、耳を閉じて、口を結んで。
そっと、静かに、それでも残っている身辺の波長を感覚的に捉えられるか。
主観を浮き彫りにする客体化を自らに促しているのです。
詩が書けないところに詩のはじまりがあるような気もします。
同じように、写真が撮れないところに写真のはじまりを感じたりして。
そうして、イデアの不可侵性の不条理を悟った後では、いかにぼくのまわりが、野暮と野蛮に充ちているか。(つまり、愛より早く作品が在るという…)
それに、自らが侵食されているか。
愕然と、呆然を、毅然として真に受けるのです。

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