喜びについて

二七歳のいま、やらなくてはいけないことがあるとするのは、それはそれでプレッシャーですが、年齢に関わらず、生きる今が続くので、いまを取り巻く過去未来一帯と対面しなくてはと思って生きています。過去未来一帯の現在付近に在るいまとしては、三十手前をいやでも徐々に意識しながら、二十代という世間が作ったフィクションの領域を間に受けて、やれ出世だ、やれ結婚出産だ、などの喧騒から一線を引いて、自分という生き物の現在とひたすらに応じていきたい。

 

それは、孤独な選択です。何せ、自意識と意志を世間に奪われないで生きるのは、人通りの少ない暗がりを登っていくような心地がするからです。そして、その中腹から後ろを見下ろせば、華やいだ世間の街灯りが色とりどり賑やかなあははおほほ。これが正しい生き方だと誘ってくるではありませんか。ネット上には自らの幸せの証拠のようなものをこぞって展開して、カタチあるものに安心しようと必死ではありませんか。ぼくは、それを目の当たりにするたびに、それを心から喜ぶことも出来ずに、何故だか圧倒的にくたびれてしまうのです。

 

ぼくのもの書きは、そうした世間の風潮との不和を通じて、一層自覚的に自らを象ろうと律しているような気もする。一方で、甘いベールに後ろ髪引かれている自分も確かに存在していて、ぼくは何度も何度も深呼吸しています。あの華やかな街灯りも、やがて朝が来れば失せてしまう、色褪せた現実の強がりが為すもので、だからこそ、その反動は果たして色欲から咲いているのだと。

 

これは、ニヒルな傍観ではなく、なんとなくテレビを垂れ流して日を送るような人生を厭う自分自身への戒めであり、正しい考察だと考えるのです。

 

ぼくは、ぼく全体を喜ばせたい。逆に、ぼくがいちばん恐ろしく思うことは、感受性を失っていくことです。目や耳や鼻や口はもとより、もっと抽象的な概念に対する瞬発力を失うこと。

 

それらを見開いている時分は、少なくともぼくは本質的なぼく自身の感動の脈を、想念の代謝を、つまりは喜びを、失っていないことに気づくのです。

著者