詩のエッセイ

文章から数日離れていた。そして、考えていた。

ぼくらは、自分が理解できる範囲の中でしか暮らせない。

理解の外側に仮に行けても、捉えられないので行っていないのと変わらない。

もっと言えば、イメージを持つことが出来れば、殆ど、その世界は成就している。

逆に、イメージを抱けなければ、その世界は存在していないに等しい。

生まれたばかりの世界は、概念がないので、ただ印象だけが世界としてある。

純粋すぎる一元的な世界だ。

大人になると感受性が劣るという通説は正確ではなくて、実は純粋な捉え方ができなくなっているのが本当のところだと思う。

また一方で、大人は概念やコトバをたくさん持っているので、純粋な捉え方ではなくコトバの意味を重要視する傾向がある。

意味から世界を捉えるのを合理的とかいうかもしれない。

反対に、意味がないモノゴトを捉えるチカラは劣っているだろう。

その意味では先ほどの通説は正しい。

で、ぼくは純粋な一元的な世界を扱う心づもりで生きた。

それは、コトバと概念と意味の使役によって表わそうとした。

イメージの臨界まで、掬い採れるように。

そいつが、例の純粋すぎる一元的な世界と一致するのを目指した。

しかし、それはぼくの中での話に過ぎない。

文章は他人に読んでもらっても、自分が読むのと同じようにイメージの像を結んでもらえることを念願している。

こればかりは、保障の限りではない。

だが、その精度は高められると思う。

一度、文章から離れて遠くからいつもと違う自分を用意して客観的に捉えてもらうのである。

その客観的な自分の信憑性を疑われたら、ぐうの音も出ない。

もはや、信じるところにしか視界は開かれないと開き直るしか。

著者