ニーチェさんは情熱的

理性は、現象を条件の織り成しものと見做した。現象の再現を計らうことをアポロン的と呼んだとして現象それ自体を問いただすことをディオニュソス的と呼んだとして予めそれら現象を感受する客体が在ることが既に現象の条件である。一方、理性は現象自体を解せない。その織り成しこそ詩である気がする。

ニーチェの『悲劇の誕生』を読むにはどうしたって、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』を読まないと捉えられないと思う。文章家としては後者の方が断然上手いけれど、前者は情熱が凄まじい。岡本太郎と近しさを感じる。ニーチェはこれを6週間で書いたという。水を得た魚のような筆致だ。

ところで、そこらにある詩集を読むより名著と呼ばれる哲学書を読むほうが遥かに読者にとって親切だ。理由は簡単で、哲学書は思想の説明で出来ているから。思うに芸術は説明ではないようだ。思想の感覚的在り方のようなものだ。説明不要としようとも受け手の感覚の心得の保証がない分、不親切と言える。

なので、世に出ている芸術作品には、命づなのようなタグが付いている。そのタグは批評とか評論とかポップとか、或いは値札などである。それは、受け手と作品との解釈項を担っている。芸術は解釈項のルートに乗らなければ今の世に出られない。それらを手引きに、受け手は漸く自らでフックを掛けられる。

一方で、成熟した受け手は解釈項という(ある種のバイアスの掛かった)媒介なしで作品に当たろうとするだろうし、もとより作り手においても後手の説明抜きに作品自体の突破力を望むだろう。そこで両者の直接的な解釈項の妥協点に、ポップさを想起する。軟質で間口が広く分かり易いファジーへの窓口を。

 

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