好きなことを職業にするとかしないとか

好きなことを職業にしたいほど好きなものなんてなかったのさ。お金が欲しかっただけ。しかし、ある時期から労働という現象には思慮を傾けることが多くなったんだ。つまり、どんなポンコツでも、自分の快楽まで、自らで取り上げるような真似はそうそうしないということさ。酩酊とは、快楽ではないのだよ、既に。適度な感度というのを仕上げるための裏打は、怠惰ではなし得ない。例えば、聴きたい音や、感じたい身体、考えたい脳みそに、自分を仕向けていくうちに、それは労働にさせておくのが手っ取り早いって、そういう考えに至ったわけさ。聴きたい音を欲する耳や、色彩を訴える目や世界を見透かし掬い上げる文字列に飢える脳みそなどが、それぞれが自立してそれらを掴めるように自ら律してしてやること、それに気づけるようになることを純粋に希望しよう。それでも、それらを好きなことと呼ぶには抵抗があるのさ。好きというのは、その本質が好きというよか、単純に手段を愛していることのほうが多いような気がするからなんだ。たとえば、音楽が好きというよか、ジャズのトランペットの手段としての音が好きだとか、そういう用法なのさ。だから、個別的なことを職業にしようと悩むことは、もうすっかりありはしないよ。しかし、これだけは忘れてはならないと肝に命じていることがあるのさ。すなわち、好きなこと(手段)を行使するには、愛をもって行使しなくてはならないと。だから、たやすく商売などにしてはいけないものだというのもそれなんだ。快楽へストイックになるということは、そこに、伏線を張ったままシレッと立ち去って、少し離れた場所で、はじめて本当に欲しいと泣く身体の訴えを聞いてあげて、それを叶えてあげられるように、仕込んだ伏線を回収してあげることなんじゃないかなと気づいたのさ。

著者