自由の極意への希求

常識が踏み固められた足場で、
盤石の至りであるとして、
安全であり、正しい認識の住処であるとしても、
それについて疑いもせず、盲信することに関しては、
安全であるとも、正しい認識であるとも、ひいては盤石であるとも、
到底考えるわけにはいかない。
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この考えには、現実における障壁がある。
四方に疑いを向ければ身動きなど取れるものではない。
従って、統計的な合理性には沿うよう
ぼくらは、自然と空気を読む能力を備えているようだ。
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日常を生きるうえでは、それで一向に構わないのだけれども
白紙の状態から
新しい詩や絵を紡ぎあげるにあたって
自らの鮮度の鉱脈を掘り当てるという、その一点において
常識というのが
もっとも、おそろしい足枷になっていることを認識したい。
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これは、紛れも無い、ぼく自身のエゴであり、たっての希望でもあり、
時として、そのエゴは、ぼくの日常生活や、ぼくに関係するぼく以外の人々に軋轢をもたらすものだ。
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このエゴを押しとどめることは、鉱脈探しの停止を意味することになる。それゆえ、芸術家は、エゴイストであるのが本分であるという見方も出来るだろう。
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その説を突き詰めると、ドストエフスキーの『罪と罰』におけるラスコリニコフとポリフィリ判事との議論、世界を変えうる天才は大局の為の、小さな犯罪は必要な大義と出来るという命題にも繋がるだろうし、実際のナチスドイツを牽引したアドルフヒトラーの政治力学にも繋がってしまうとも思われる。
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いや、話が膨らみ過ぎたので戻すと
ひと様に害をもたらす自由ではなく、
一遍の詩や、一切れの絵画のレベルで
ピカソのゲルニカのような自由な筆致が得られるのであれば
それが、本当に自由でありかつ平和なんだと思う。
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逆にいえば
不穏なことを書くけれども、
それが出来ないから
ぼくらはいわゆる、不自由で、平和ではないのである。
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それでも、尚、常識のうえに住み
平和なふりをしているものを、ぼくは心の底から軽蔑する。
そして、その軽蔑は軒並みぼく自らにも及ぶのである。
そんなとき、ぼくは無性に死にたくなる。
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漸くそうすると、無意識を願うようになる。
無為への憑依が時々起こる。
それを予知して、周到に、筆を持たせようと、ぼくは、ぼくに画策する。

著者