パンチドランカーになる前に

植物の根は、細部に細部に、奥に、奥に、伸びようとしているようです。
で、茎や葉も影から光を覗くように拡がっていくようです。
そこに、快が在り、自由へ挑んでいるようにも見えるのです。
まさか、不快を目指すわけでもありますまい。
まさに、自由の練習そのものは、わたしたちの現実であり、もはや習作的な本番と違わないでしょう。
しかし、その節々で、わたしたちは挫折をして、苦みを味わう。時に、苦みさえ、味わえるような味覚さえ開発して、それさえポジティブに快を見いだそうとする、そこにも又、自由へのエチュードがたちあらわれるのです。
ところが、舌が肥えてしまうと、甘いものだけが並んでいても何の面白みも覚えなくなってしまうものでして、わざわざ、苦いものや、塩辛いもの、何度も咀嚼しないと緩やかな甘みを伴わないものなどを探したりもする始末です。
いたちごっこの割り切れない、やり取りのなかで、快の反射を愉しめるかが終始自らに問われている気分にもなるのです。
で、絶え間ない快の明滅を片時、一手に担う、永久の快を保存する企だてが、芸術家によってずっと行われてきたように思われるのです。
さしづめ、快の反射で、瞬時に収束する如くの不足と充足、たとえば空腹との食事の関係ではなく
半減期のこない、快の乱反射、アキレスと亀の間に眼差すアフロディーテさながらではありませんか。
それは、出口のない迷宮に自ら飛び込みたいと欲する命知らずの夢見事のようにも聞こえます。
わたしは時々、それがパンチドランカーや、あるいは薬物依存者が、あちら側の世界にいってしまったのを見るような、乖離された、ある種の狂気を感じないではいられません。
そして、その狂気を遠巻きで批評を講じるひな壇には凡そ、その身に起こる当事者としての感動を得られる資格はないのだとも思います。それは、端的に言って臆病だからなのでしょうが、わたしは、日々、その臆心払って、徐々にその狂気の中核に迫ろうとしています。
ですが、一方でわたしは、この観察眼を持って、この身を通して、あくまで冷静な叙述をしていきたいと欲します。
理屈ではないことさえ、細分化されていない理屈は隠されているはずだとも考えております。
もっとも、仮にそれを知ってしまうことが良いことなのかどうかはもはや考えの及ばないところです。

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