着せ替え人形

服や髪を気にするようになったのはこの数年で、着の身着のまま生きてきたのですが、それではいろいろと損しているということが分かって来て、最初に髪を、すきバサミを買って自分で整えることに成功したのが昨年の晩秋のことでした。髭を剃るのを自分でやっているのに、髪を自分でやれないことはないというのが表向きの理由でしたが、本当のところ、お金に困っていたからなのでした。それで今度はいろいろな整髪料を調べていき、ワックス、ジェル、ポマード、スプレーと試すうちに、自由自在になってきました。髪の要領が分かってきた頃、ぼくの歳下の上司の身なりの良さがやけに目につくようになってきまして、取り分け彼の靴の手入れが行き届いていることに着目したのでした。なるほど、仕事の出来る男は足元にも抜かりがないのだ思う一方、自分の靴を眺めてみると、上京する際に両親に買ってもらった十年来の靴が傷んでみすぼらしくすぼんでいるのでした。そんなわけで、すぐ靴の修復グッズを揃えて、補色や磨きに精を出したら、まあまあなんとか見栄えのするくらいに艶が出て、パテで補ったかかとを慣らすのに早速履いて街へ繰り出してみたのです。そうして歩いてみると、街ゆく人たちの髪型や足元ばかりに意識がいってしまうもので、案外、みんなちゃんとしているようで、結構ボロを出しているというのが実際のところなのでした。以前の自分のように履きつぶして色も抜けている靴を平気で酷使していたり、髪の毛の収まりが半端であったりと、一体何様かと思うほど上から人々を観察して批評するのに熱中しました。しかし、やはり身なりをしっかりされている方も少なくなく、目を見張るようなカッコ良い姿に出くわすたび、今度は自分にまともな鞄や時計を持ち合わせていないことに気がつくのにさして時間がかかりませんでした。何かの水準を高めると、他が見劣りしてしまい、結果、全体のバランスが考慮されて、ディテールが弱みとして嗅ぎ取られてしまうという事情です。細部に神が宿るという言葉が思い出されつつ、どう足掻いても、キリがない部分もあり、また、その過程で、決して少なくない金が飛んでいくということも即座に予想されるのでした。そして、その、いわゆる平均的な、普通という水準を維持するということだけでも、相当に偉大な仕事に思えてならなくなるのです。同時に、その普通さえもままならないという器量の小ささを思う時、外を歩くのも厭になって引きこもりがちになるわけです。そうして、そういった恥の意識の芽生えていない快活な時分の健やかな足どりを思い出しては、その無邪気さに戻りたいような戻りたくないようなオトナとコドモが乖離する中間で身悶えする我が身を見つけていました。たぶん、それは勝手にこちらが線引きしているだけで、オトナのコロモに憧れているだけの、中身は昔から変わらない自分なのですが、この一点の確信だけは妙な安心感があるのです。思えば、いつだって欲しいものは手に入っていないわけで、手に入ったと思ったら、まったく足りていないということの繰り返しなのです。その足りていないという認識が、なんとか首の皮一枚、しっかりしなければと常識に勝手に照準を合わせてくれるので、どうにかこうにか、ぼくはまだ年不相応のバケモノにはなっていないはずなのですが、どうでしょう。

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