サラリーマンアーティスト

自分の先入観を大切にしています。
それが、自分の世界観に繋がっていると思うからです。
だから尚のこと、自分の世界の観かたというものを盲目的にしないようにしています。
自分の世界の観かたに客観的でありたいと思っています。
それを反芻するように日夜、散文を書いています。
書いたものを咀嚼して、再び自分のスタイルへ習作します。
当然、偏りが生まれますが、自分という個から世界を観る以上、偏りがあるということ自体が普遍だと思っています。
むしろ、その偏りの潔さ如何にひとは魅了されると考えています。
振り切れているようなひとやモノゴトに憧れさえ感じることがあります。
偏りが極まっているからです。
極みというのは、おそらく死に限りなく近づいている状態を意味しています。
世界の輪郭、最果てに当たる処まで攻めているからです。
そこまでたどり着いたひとは、既に伝説となり賞賛されますが、それを良く思わない世界の人びとによって消されてしまうことが起こり得ます。
時代という巨大な世界観は言い知れぬ権威が内在していて、それにそぐうことが秩序であり規範となりますが、必ずしも一時代の世界観の範囲内での正解が、森羅万象の真理であるとは限りません。
逆に、個々人に内在する真実は、まさしく個々人に起因している以上、本人にとっては紛れも無いひとつの真実であると言えます。
その個からの出発点である世界の観かたをおざなりにすることは、自らの真実を追放することに他なりません。
巨大な権威側の世界観を起点に鞍替えして自らの世界観を伏せることを、社会に出る上でのマナーと呼んだりします。
そのような社会性も大切で、それを見落としたまま自分の世界だけにしがみつくのは、恥ずかしいことです。
逆もしかりで、権威側の世界観に安住しているだけの人びとも存分に恥ずかしいのです。
これの折り合いが問題なのですが、それは自分の生き方をどのように決定づけるかという問題なのです。
つまり、自分側を方便とするのか、権威側を方便として生きるのかという決定です。
かく言うぼくは、どちらかといえば自分の在り方を起点に物事を捉えて、それを世界に応用しているので反社会的傾向ということになるかと思います。
ざっくり言えば、アーティストの本質は反社会性にあると言えるかと思います。
仮に、アーティストが社会的に成功を収めてしまうと、いつしかアーティストは権威側な立場に反転することがあります。
そこでアーティストは自らの本質と置かれた立場に矛盾を感じ、それが極まるにつれて自らを傷つけ滅ぼすことで、自らの本質的な偏りを守ろうとするでしょう。
却って、そのような反社会性の潔さが人びとから愛されて、社会的存在へとパッケージングされることもあるでしょう。
おそらくは、20世紀のロックンロールやパンクなどの音楽産業などで起こっていたことはそれだと思います。
アーティストは死ぬことで、自らの本質が完了することがあるようなのです。
逆に、需要と供給のなかで執り行われる産業のなかの従事者としてのアーティストの多くは、実は権威側に飲み込まれているのかもしれません。
その意味では、そういう方々はアーティストと呼ばれるかもしれませんが、その本質はそこらのサラリーマンと差したる違いなどないのが本当かもしれません。

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