嗜む

うまくなるのには、普通、練習がいる。粛々と訓練すれば、大概上達するものだと思う。論理と実践を持って、現実に自らの哲学を上書きしていくように。だけれど、ぼくは詩を練習するということはとうとう一度もできやしなかった。いやむしろ理性を手放して、なにも考えずに空っぽであることを幾ら望んだかわからないほどだ。そんな状態がもっとも上手だったのは、もう、ずっと昔のことだから、或る意味、ずいぶんと後退を余儀なくされている。とは言え、その時分には手持ちの概念もほんのわずかなものだったけれども。傷みや喜びを世間のコトバに擦り合わせていく敗走感や違和感から、自らの息づかいに気づいた頃より、次第にぼくは詩人を自覚していった。瞬間の真実さえ追えない日常の疎さに、日常に居ながらにしてケリをつけていくという、端からみればノイローゼのような営み。或いはノイローゼをトランスして嗜むと言うほうが正確かもしれない。ノイローゼの練習なんてちゃんちゃらおかしい。いつでも、それらの雑多を容易く平らげて過ごしやすくしておきたいはずなのに、確かにあるはずの表象を迎えに出る。希いだけ残して自らを溶かしながら、ぼくの天国へと、いま現在の現実を使用していく。これが本当にぼく自身の意思なのか、はたまたぼく以外の神さまのようなものに仕組まれているのか、正直、自信が持てない。

著者