快楽の科学

詩を人工的に生成することを考えている。〆切があって、針に糸を通すような訓練により、コトバの精度は高まる。(理屈はそうである)が、しかし、精度が高いだけの文章が必ずしも新鮮な作品になるとも限らない。気持ちのよいズレのような塩梅を加味した上での、心象に与える効果を精度と呼ぶなら、実に計算づくの作品づくりと言えよう。専門家というのは音楽家であれ美術家であれ、快楽の科学に基づいた計算によって表現の制御を行なっているのだ。従って、いわゆるその筋の新鮮な作品と呼ばれるものは、快楽の裾野をほんの少し更新したことを意味している。この更新というのがアートの意味するところである。アートというのは、おそらくはある種の賭けなのだ。というのは、快楽の科学の範囲内でかまけている次第においては、無難な過去の反復に過ぎない(つまり、それはエンターテイメントであるのだが)が、その範囲の外側は、従来の法則が当てはまる保証がないからである。快楽の科学の範囲外で、別次元のベクトルとの交叉によって万に一つ、異次元の快楽の科学が生成されるのであり、それこそがアートの体現である。が、ほとんどが目も当てられないものばかりなのが現実なのだけれど、それが、現代芸術なのだと認識している。それらは、⑴よくある無難な作品、⑵くだらない作品⑶魅惑的な未知な作品に選り分けられる。多くは、⑴に落ち着くが、ガシガシ挑戦的なことをしていくと、ほとんど⑵となってしまうという事情である。これは、エジソンの白熱灯の研究に似ている。概ね確からしい方程式に適合する素材を見つけていく工程は、凡庸なやり方では、光を灯すには至らない。おそらくは必要なことが二つあり、一つは、快楽の科学に対する思索を継続させる時間軸、もう一つは、時間軸を断絶させないための経済力などの諸条件である。つまり、時間と金銭という資産がなければ、享楽の研究に没頭することが出来ないということだ。これを実現させることは非常に贅沢なことであり、だからこそ、憧れの境地なのである。ともあれ、重要なのは快楽の科学の範囲内での基礎的な法則性を、最低限学習していくこと(知力)と、それを突破するための力(体力、経済力)を養うことにありそうだ。

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