大人になれば

あす、大阪に行きます。ぼくは、いま立派な詩人になるよりも、ちゃんとした大人にならないといけないと思っています。で、ちゃんとした大人はぼくのことをちゃんとした大人になってほしいと思って、遠まきに応援しているのだと思います。さいきん、自分はさまざまな脳の部位の発達が人よりだいぶ遅れているんじゃないかと考えるようになりました。それは、たくさんのひとたちに心配をかけていて、それを自分ではどうすることもできなかったからです。ぼくのことを頭の良いと言うひとが時々いますが、それは或る狭い意味では合っていると思いますが、広い意味だと完全な誤りです。何故なら、普通のひとがあたりまえに感じていることやあたりまえにこなしていることがうまく出来ている自信がないからです。そのなかには、基本的な愛するということが含まれていて、ぼくはそれをずっと疎かにしてきたような気がしています。そして、それを表現することに不慣れであると自覚しています。こればかりは一朝一夕でうまくいかないので、丁寧に、意識的に、しっかり感謝を拾えるように努めています。本来、努力する類のものではないと思いますが、そうしないと落っことしてしまうような気がするのです。詩人というくらいだから、何よりコトバに秀でている存在でありたいのですが、ぼくはいわゆる世の中のひとたちに比べて、明らかに言語能力が劣っています。これは確かなことです。いつもコトバに乗り遅れたり、乗りこなせず振り落とされています。もっと、正確に言えば、コトバを通した(コトバという)行動に不備を認めています。コトバは行動の一部、端緒だと考えていて、その正確さにおいて、人びとはその人となりの誠実さを押しはかっている気がしています。グルーヴのない音楽や、旨味のない料理、塗りたくられているだけの絵画・・・。ぼくが不快に感じるものたちは、必ずしも表現の文法において誤りがなくても、どこか自分に触れ合わない冷たさが在ります。社交辞令などもそうです。ぼくは毎日そのようなノイズにビジーになり、琴線を綻ばせてしまい、感性が痩せるのを目のあたりにしてきました。何も出来ずに、ただ軽蔑するのがやっとの日々を過ごしてきたようにも思います。これは完全なぼくの手落ちです。すべての事象がコトバであり、コトバという行動に丁寧に向き合わず、怠けていたという手落ちです。気がつかなかったという手落ちです。そういった連なりを認めるにつけ、自らの心に根を張ったコトバたちの不適切さに愕然とした今日この頃です。平たくいって、失望して挫折を味わっているのです。しかし、このように自らの状態を分析して告白していくことが自らの救済だと信じていて、ぼくはずっと曲がりなりにも書き続けてきたのだと思います。これからも何遍も同じようなことを繰り返していくと思います。その度に、ひとを困らせることも目に浮かびますが、少しでも今より真実のコトバに近づけるように生きるしかありません。気づいているのですから、気づいているもの同士というのは(つまり、ぼくの声が聞こえるということは)、これ以上ないくらい、とうといことです。

著者