詩の職人にはなれなさそうだ

昨日が原稿の〆切だった。詩を〆切に合わせて書くスキルがないということが分かったのが収穫だった。赤坂の双子のライオン堂から年末刊行される雑誌に寄稿したので、本屋で見かけたら読んでもらえたらと思う。(詳しくは詳細を追って書きます)どれだけ頑張ったかというのは意味がなくて、結果として良いものが良いという掟があると思う。産みの苦しみが悦びと紙一重というのは確かにあるのだろうけれど、それは作り手の側のお話なのであって、ジムで筋トレしているマッチョが自分の筋肉を愛でるのと似ている。そんなものは、周りからはどうでもよいことなのだ。問題は、自他ともに良いと思わしめるものは、どのような条件領域なのだろうという美学の問題である。つまりは、客観的な審美眼、超越的審美眼がなければ、ただの自己満足に留まりかねない。それを踏み誤ると、特に「詩」をはじめアートの世界ではとても残念なことになる恐れがある。現に自分自身何度、残念なことになったか数え切れない。作りたいものを作り、書きたいものを書けばいい。ただそれだけのことの純度に、なんらかの思わしくない理性の介入が1ミリでも含有されれば失敗になるものだとも思う。詩は、テキストであり数式のようなものだから、色を塗り足せば良いというわけでは当然ないので、いわばぼくにとっては宝石のようなものだ。吐いては捨て吐いては捨ての、繰り返しのなかから稀に見つかる宝石を、こればかりは人に見て欲しいという類のもの。それは産みの苦しみなんて無関係の、ただそれだけで素晴らしいものであってほしいものだ。精神論とは一切無縁の、良いものは良いという謎を、死ぬまで周回していくのだろうと思う。とりあえず、ろくでもないものばかりかもしれないけれど、これからもひたすら書いてみようと思う。

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