堕落したい。それしか救済の道はない。と言ったのは親鸞聖人だったか坂口安吾だったか。現代における無頼というのは、無頼とも認識されない道端の石ころのようなものだろう。常に歴史というのは、行くところまで行きついている状態の更新にほかならない。飛ぶひとは落ちる。落ちるから飛べる。しあわせという言葉に含有される陳腐な概念には反吐が出る。ことばに使われてしまう歴史がもう数千年続いているのだ。詩人は世界の端っこにいなければ詩人ではない。それは同時に真ん中にいるということだ。そして、それが故に世界のパイオニアでもあるのだ。恥じらいを捨てて、真実を肯定しなければならない。真実はえげつなく残酷で美しい。それに向き合うものは確かに命を削ることでもあるが、命としては本望なのだ。春から冷めたのち命を腐らせながら、死を飼いならしている人間がどれほど多くいるか?現在を失った未来は足枷でしかない。世界の際を、子どものまま歩き続けないと、陳腐なしあわせに、ゆるやかに殺されることを選ぶことになる。その前に地獄を信じて、凡ゆるものごとを問いかけてやれ。自ずとそれらは声や色や脈を放つだろう。その無骨なやつを長い時間かけて救ってやろう。

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