オノツバサの詩の思想

概念のマトリクス、造語というのも、いつか新たな概念として固定化する。そして、それは概念の絵になる。

ぼくは、そんな詩へのアプローチを続けてきた。とくに、出来合いの難しい言葉というのを極力避ける。

不必要に難しい熟語、具体化されたレイヤーにある概念などは、イメージの展開を躓かせることが多いし、拡がりが少なくなりやすい。

むしろ、詩はプリミティブな言葉にこそ発現する、というのがぼくの思想だ。

原初的な言葉は、誰もが子どもの頃に獲得する言葉であり、それはおしなべて感覚と同期する言葉である。

だから、どの世代が読んでも、感覚的に読めるだろう。

しかし、ただ読める説明を、詩で行うことに意義は乏しい。

誰もが読める原初的な言葉を手繰り、それを交錯することで、イメージを展開させて、言葉の絵を描く、それこそが、ぼくのやろうとしている詩である。

その意味で、ぼくのやろうとしていることは、現代詩壇の難解な作品群とは基本的に違っている。

だが、jポップの歌詞のような、或いはエンターテイメントとしてのポエムをやろうとしているわけでも決してない。

少なくとも、詩というテキストのみの形態で、脳内で音楽と映像がまことしやかに織りなされることを望んでいる。

美しいテキストを望んでいる。

恐ろしいテキストを望んでいる。

消化はなされるが消費されないテキストを望んでいる。

古来よりの普遍的な日本語による、新鮮なテキストを望んでいる。

意味自体よりもテキスト自体に価値がある仕方のテキストを望んでいる。

声に出しても、韻律が生まれるテキストを望んでいる。

読了に際して、余韻を宿すテキストを望んでいる。

そのテキストを説明することが、もう一つの番いのテキストになるようなテキストを望んでいる。

そのテキストが、テキスト内の概念の最大公約数となる巨きな概念にも思えるようなテキストを望んでいる。

比較的、平易で中学生、高校生が読めるテキストを望んでいる。

テキストの雰囲気の肌理がインスタ映えするようなテキストを望んでいる。

書き手が自然と一体に溶け込んでいるようなテキストを望んでいる。

血にも肉にもならない夢や幻想でありしも、寝汗と代謝の実感のするテキストを望んでいる。

数年後に再び読んでも、感覚として記憶に刻まれているテキストであることを望んでいる。

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