書くことに絶望するようになってきたのだ。書くことが救いであれば、反面で絶望も増長する。息を吐くように書けていることもある。言葉を使い果たしていると消耗する言葉も出てくる。そして、少ない手数は出尽くされ、少し考えたくらいで出てくる言葉は思った通り、陳腐なものばかりだ。そんな日々が増えていき遂にはそんな日ばかりになる。そういう種類の絶望。

ツイッターなどで嫌でも目にする自称詩人の無数の詩らしき言葉たちの瓦礫、の山、の吹き溜まり。それこそインスタントに消費できる安易なポエム。こんなポエムを支持する連中は、あたまの弱いやつらなのだと思うけれど、それはつまらないバラエティ番組をつい見てしまうのと程度としては同じだから、それを悪く言う筋合いはない。安易なポエムを心待ちしている人もつまらないバラエティ番組を見ている人も、決して気の毒なことはない。むしろ気の毒なのは、それらに面白みを感じることができず、かといって自分の考える理想の表現の象を正しく結べないことだ。

近年、SNSに人は住んでいるけれど、頭をSNSに漬け込んでいる中毒者には、やはり世界に出回っている幾多の陳腐さのために、不感症にさえなっていて、そんじょそこらのテキストでは満足できなくなっている。それが高じて、自らSNSの世界のなかで既存の陳腐に抗うように、自らの手でテキストをこしらえようと立ち上がるひとも近年密やかに増えている。

そうして自称詩人や自称歌人や自称アーティストが増えるが、それ自体は悪いことはないし、誰もが最初は自らの才能を自覚したのち自称して、人によりそこから自称を卒業するのだろうから。

もはや、ぼくは自称詩人を辞めてしまって、つまり強がりを辞めてしまって、本格的に自分の天才を確信するようになってきた。だから、そこまで一生懸命自分を詩人と自称する必要を感じなくなった。何しろ、ぼくは当たり前のように詩人だし、それはつまり天才だということなのだから。

で、天才だと自覚したきっかけになったのは、書くことに絶望を感じたことからだ。すらすら書けているときは、息をしているだけだったが、絶望という壁にぶつかって、漸く今まで作ってきた自らのテキストの面白さを感じることができたし、それが大方煮詰まったあとに風穴を開けることの難儀さも目の当たりにしたのである。ただ、この壁を手に入れられたこと(この苦しみを手に入れられたこと)をぼくは自らを祝福したし、それを格闘し続けることが詩人としての命の使い方のひとつだと感じられたのだ。

つまり、書くことに絶望したところから、詩作がはじまっていくし、その格闘が充実していき脳は疲弊しながら、からだが無重力になるような感覚に到達できれば、まだまだあたらしい裾野を臨めるのだと確信を持った。

ぼくはぼくを認めるけれど、まだまだ世間はぼくを認めていないと思う。世間というのは、つまり、あなただから、あなたに認められるような、素晴らしいテキストを全身で書きたい。

ぼくが認めるようなあなたから見て認めざる得ないようなぼくでありたい。

 

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