整形をするとかしないとか

行間や字間ひとつで画面の印象や読み込む意味が変化する。それを逐一、精査するのはキリがなく思える。

精査?つまりは美醜の精査のはずで、より美しいものへの恣意なのだけれど、こういう作為自体が作品を醜くする恐れもある。

整形した顔は、フォルムとしては整合性があって美しいはずなのに、それを全面的に肯定するようには世の中が出来ていないのは何故か?それは、その作為が醜いと感じられるからだ。或いは、自然の美しさにはない違和感がそうさせている。

推敲とは、ある種の整形でもあるから、どうしてもこの違和感と向き合うことが否応なしに出てくる。もともとの素材が元来そうあるように表れる仕方によって活かされなければ、水の泡になりかねない。

料理においても、後づけでは手遅れになるような工程があるし、絵画においても然りである。

さいわい、文章は何度でもやり直しが効くといえば効く。が、それを遺してしまえば残り続けるものだから、始末が悪いこともある。そういう類は黒歴史と呼ばれ、それを避けようという危機感は常にある。

最善の選択の連続が推敲の路だ。

いよいよ選択肢が二つまでに絞られるとする。そして、そのどちらもがある意味で正しい。そのどちらもが悪くはない。どちらがベターでどちらがベストなのか。

もはや書き手には甲乙付けがたい状態では、作品自体に選んでもらうしかないように思う。作品がどういう姿や意志を持ちたいのかを、書き手から離れた作品というひとつの人格として判断を仰ぎたいとさえ考える。

孤独で、絶望的でないと、そういう声は聞こえない。それは、逆説的に言えば、祝福されるべき孤独であり、絶望であるから、いわゆるセンチメンタルなものではなく、ミニマムでプリミティブでパーソナルな静けさである。

宇宙に、それだけしか対象物がなく、その対象物に、書き手が憑依するような、少しばかり頭の狂った状態。

なりたい生き物になる。

方向性は整形と同じかもしれないが、整形と違って外圧によるものではなく、内圧から自ら隆起して望まれていく言祝ぎであるから、その内圧の過程こそが内容物になる点で似て非なるものだ。

読み手は時に、書き手よりよほどシビアにそのわずかな違いを見抜く嗅覚を持っているということを、おそろしく、また、喜ばしく思わないではいられない。

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