終わらせることについて

終わり方というのが始め方よりも難しい。なにせ、始まりはどちらかといえば、いつのまにか始まっちゃっていることが多いのだけど、終わろうという時は、しっかりとした意識で終わろうとしてしまうから。なんとなく終わらせようとすれば、なんとなく続いてしまうものだから。

ぼくは、これからの一ヶ月ほどは蔵書の詩篇をいろいろ覗いて、最初の一行と最後の一行をピンポイントで調べてみようと思っている。

物語であれば、よく言われる起承転結でいう起と結だけど、それは詩で応用されているのか、どのような機能をしているのか。

実は、詩を書いている身でありながら、あまりその点には今まで意識を払わずに生きていて、まったくの無自覚で書いてきた。それで、ふと、詩文の構造とか、それぞれのセンテンスが如何に効果を発するのかについて考察してみたくなった。(そういった仕組みが分かったからと言って良い詩が書ける保障はないし、それを知ったことによって筆致に迷いが生まれるかもしれないけれど、それは自分に訪れた壁なわけだし、それは乗り越えるために眼前に現れたであろう壁なのだから、取り組まないわけにはいかない。)

ところで、冒頭に始まりより終わりが難しいと書いたけれど、これは習慣を使わない限り難易度は同等だと感じている。(え?どういうことだって?)

つまり、詩を書き始めるのを例えるなら、ある日「さあ、今から、ここに横になって、すぐに眠りにつきなさい」と言われるようなものなのだ。白昼に、疲れてもいないのに、なかなかすぐに眠りに入れるものではない。

しかし、夜の決まった時間に寝る習慣があれば言われなくてもまもなく眠りにつけるだろう。ぼくにとって詩は眠りに入るのとほとんど同じで、自ら詩の入り口に入れる瞬間を経験的に或いは慣習的に体感していれば、そこまで骨を折ることはない。

そう考えると、詩の終わり方に関しても眠りのそれと同様に、目覚まし時計や鳥のさえずり、バイクの音、雨の滴り、喉の渇き、空腹、怖い夢、またはなんとなくスッと目を覚ます等々、、、さまざまなパターンがあるのだろう。

これら目の覚め方において人為的なケースもないわけではないが、基本的に自らの作為と意識によって眠っているあいだに目覚めをコントロールしようという作為は見られないだろうと思う。そういう眠りが仮にあったとして少なくとも、よい眠りではないし、そもそも眠りにさえなっていない気がする。

そんなわけで、蔵書で詩の始まりや終わりやら創作の法則性が見つかったとしても、それを作為的に応用しても良いものはできない気がするけれど、そのような知識が暗示的な下地として首尾よく、ぼくの詩的生活を下支えしてくれるなら、それは願ったりかなったりだと都合の良いことを考えている。

 

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