詩人になるために

ぼくに詩を書かせるのは、たぶん霊的なもので、その証拠に、正気のぼくはまるで詩的な生き物ではないし、いつも詩人を名乗ることに気後れと羞恥心さえ抱いていたりする。

ふだん好む詩文はなるべくそのような自意識の投影ではない類いのものだ。

一方、判然とした自我を抽象的に素描することを詩で求めるのは、とても凶暴であったり痩せているものが多い気がして、それこそ小説とか随筆にした方が、自我のわだかまりの落とし前をつけられるというものだ。

で、二十代中盤のある時期までぼくもそのような芳しくない詩の消耗を続けていて(そのような詩の領域の使い方が普通だとさえ思っていて)、吐露しようとする自我と、吐露し終えた自我をセットのモニュメントとして愛で、慰めにしていたのだった。

しかし、昔からぼくには霊的な何某が付いていて、ポエジーの浪費の隙に芳潤な無為が覗くことがたびたびあった。それを自ら目の当たりにすることで、無意識の領域に畏敬の念を払うようになった。それは確実に自我の塗り固めではなく、風景と音楽と無意味さと祝福の倍音があったからだ。

自分で書いているにも関わらず、自分では書いている時分を詳細に思い出せない、もちろんそれを正しく説明することもできない。その代わりの分だけそのものを愛おしく美しく思っているばかりである。

これは、いわゆる技術の集積ではなくて(技術がないとは言わないけれど)、自らを生け贄に捧げて生まれる走馬灯の写しなのである。それを与り知るのは幸運なことだ。センテンスそのものが祝福が織り込まれている謎の文。

これを生業とするのは、その時点で人生を賭けているし、その覚悟の有無が、自らの詩人の呼称のするしないを決定していると思っている。

著者